

半音上げたら‥
今まで数多くの歌手と仕事をしてきた。 JAZZ、POPS、ボサノヴァ、サンバ、 ラテン、ROCK、FOLK、 オールディーズから演歌、歌謡曲と いろんなジャンルの曲を演ってきた。 いろんな歌い手がいた。 あくびちゃんみたいないで立ちで 小さいバッグをグルグル回しながら 「おはょ〜!」と登場する A生光希嬢。 (去年お亡くなりに、残念。) この人の譜面は強烈だった。 BだとかC♯mだとか‥ とんでもないkeyだらけなのだ。 こちとら初見なのだ。泣 でも歌は好きだったな。 パンチがあって楽しかった。 名前は言えないが 「おはょ〜!」と入って来た時は 誰だか分からず、 化粧を終えて楽屋から出てきて やっと誰だかわかる歌手もいた。 また、歌い手の中には 毎日いろんな現場を回っている人と そのバンドの専属の場合があった。 専属歌手なら 少しぐらい難しい譜面でも リハがあるから平気だ。 きついのは 毎日入れ替わりでくる歌い手達。 リハが無いのだ!! 初見なのだ!! それもバンドが2,3曲 インストをやっている最中に 3,4曲の譜面が目の前に置かれるのだ。 そ


マルエム
子供の頃 「街へ行く」と言えば 本町だった。 店は今とそんなには変わらないが 人出が全然違う。 毎日が24日市の様な感じだ。 今では信じられないが 年末なんか人だらけで クリスマスソングが流れていて すんごく幸せだった。 そんで小さい頃、一番ワクワクしたのは おもちゃ屋「たなはし」だった。 今、考えれば狭い店なのだが キラキラして天国の様な場所だった。 もちろん買って貰えるのは たまぁ〜にだったけど。 小4くらいになると おもちゃよりもプラモや ラジオ工作に興味が移った。 それにドンピシャな店が マルエムにあった。 マルエムは、かじ橋のそば 今のホテルa-1の辺りにあった。 覚えているのは、入ってすぐに ケーキ屋があった事。 多分他にも色々店はあったのだろうけど まったく覚えていない。 お目当ての店は一番奥にあった。 プラモデルやラジオの部品 なんかが置いてある狭い店。 自分にとってはお宝だらけの店だった。 お金なんか持って無いので 外から眺めてた。 そんで正月とかお金をもらうと すっ飛んで行ってた。 持ってるお金ギリギリで プラモを選んですっ飛


アトムの帽子
子供の頃は何でも信じてた。 遊星少年パピィのペンダント。 毎日、食べたくもないガムを 必死で噛んで応募券を貯めて 応募したのがやっと家に届いた。 「よし!これで僕も今日からパピィだ!!」 と意気込んでペンダントの笛を吹いた。 「あれっ!変身しない!!」 何度も吹いてみたが何も起こらなかった‥。 パーマンもかなり本気で信じてた。 日本のどこかに絶対いると思ってた。 友達になりたかった‥。 ある日ビッグXになりたくて 家中を探し、古い万年筆を見つけ ダイアル3と叫びながら手首に刺した。 「イテッ!!」 血は出たが変身はしなかった‥。 遊星仮面の帽子と仮面とマントが 陣屋前の店の店頭に飾ってあって 欲しくて欲しくて 毎日見に行っていた。 本気で変身出来ると信じてた‥。 その頃、アトムの帽子を買ってもらった。 ビニール製のペラペラのやつで さすがにコレではアトムにはなれないと思ったが でもやれるだけやってみようとした。 アトムは上半身裸で、黒いパンツを履き クルッと巻いた様な靴を履いていた。 なので、とりあえずパンツ一丁になり 黒パンツは諦めて自分の白パ


カセット工場
いくら「俺はプロだ!」と意気込んでいても 仕事が無ければアルバイトだ。 窓拭きは怖くて一日で辞めた。 深夜の駐車場は時給が¥320だった。泣 N通の引越しは、おっさん達の奴隷だった。 まあまあ続いたのは、 洋服屋の店員とカセット工場だ。 洋服屋はやっぱり社員の小間使いだった。 いくら売り上げても時給は¥500だった。 意地悪な社員がいっぱいいたな。 よく売り上げを横取りされた。 カセット工場でも嫌な社員がいっぱいだった。 スチューダーのデッカい録音機で 倍速で録音していく。 もちろん、太く巻いたオープンテープに カセット何十本分かをいっぺんに録音していく。 俺は奴隷扱いなので 巻きの崩れたオープンテープを修復したり 何レーンかあるスチューダーの列で 滞っている列を手伝ったりさせられた。 また、まだテープを仕込んでない 空のカセットの消去防止爪を 死ぬほど割ったりもしてた。 辛かったのは、目の前が換気扇で 外には吉野家の厨房の換気扇があった事。 いくら大好物でも 四六時中、牛丼の匂いが顔を直撃するのは辛い。 工場は殺伐としていて 今までアルバイトし


YouTubeのおかげ?
昔、家のTVは映りが悪かった。 それは、家が山に囲まれていて 電波が届きにくいからだった。 それで集落でマスプロアンテナを立てて それを何十軒もの家に分配するのだから 電波がすこぶる弱いのも当然だった。 そんな状態が普通だと思い込んでいた ばあちゃんや父ちゃんが 現在のデジタル放送を観たら 喜んだだろうな。 と言う事は 昔、家で撮ったビデオは 標準だろうが3倍速だろうが ボヤボヤでジャミジャミだ。 DVDの時代になっても 弱い電波は変わらなかった。 なのでデジタル放送が始まって 本当に驚いた。 綺麗!! ぼやけてない!! にじんでない!! それからはDVDに撮っても綺麗だし Blu-rayなんか15倍速でもご機嫌だ! なのでもう一生ビデオなど 観ないと思っていたが、 Aishaの閉店整理のついでに いっぱい出てきた音楽ビデオを見てたら なんだか観てみたくなった。 何年もほったらかしていた ビデオデッキをゴソゴソ出してきて 今では懐かしくもある 赤白黄のコードをつなぎ 恐る恐るビデオを再生してみた。 おっ!動く!映る! 無事にテレビに映像が映った。


旅立つPIANO
楽器を手放すのは辛いものだ。 例えそれがどんなに おゾイ(粗悪な)楽器でもだ。 なので楽器だけはサンタには売らない (サンタの倉庫は高山のリサイクル店。) 知ってる人に使って欲しいからだ。 楽器を手放す心境は、 「ドナドナ」とか「達者でナ」だ。 昔、ローズ(フェンダーのエレピ)の スーツケースを売ってDX7を買った。 この時もしお金があれば売りたくはなかった。 (当時DX7を持ってないと仕事が取れなかったのだ。 事務所から電話がかかると、まず所有楽器を聞かれる。 要するに楽器のレンタル料をケチっているのだ。) ただ嬉しかったのは、買ってくれたのが 東京バナナボーイズのGOROさんだった事。 きっとその後の作品に使われたんだろうな。 GOROさん、佐々木悟郎、イラストレーター。 水彩画で有名。スイングジャーナルの表紙など作品は多数。 だが、週末はミュージシャンに変身してた。 土曜日になると 押し入れからでっかいスチューダーのマルチを引っ張り出して 和室で録音だ。 それがそのままTVのCMやドラマのBGMに使われてた。 ♪アぁぁ〜トぉ〜引越しぃ〜セン


楽譜
楽譜。 今まで生きてきた中で 一番綺麗だった手書きの楽譜は 六本木で一緒にやっていた マルガリータさんの楽譜だった。 特徴的なのは音符とたて線が離れている事。 音符が音高と長さを表し たて線及び旗がリズムを表している。 これは見やすい。 現場は常に初見なのだ。 あんだけ綺麗だと 難しくて弾けないはずのフレーズも 弾けてしまったりする。 綺麗な楽譜は良い演奏に繋がるのだ。 と言う事は、汚い楽譜だと 普段弾ける事も弾けなくなってしまう。 また、演奏が無意識にせよ雑になりがちだ。 なので人に渡す譜面は 極力綺麗に清書して渡している。 またそれには、実は裏の意味もある。 間違えても譜面のせいには出来ないから。 プロの現場でも小汚い楽譜を平気で出す奴もいる。 極め付きは、ポケットから出した 8つ折りにした楽譜を ピアノの上に投げられた事。 この時は僕が怒り出す前に Bassの赤間君が激怒したな。 ステージ終了後その生意気な女を ロッカー部屋に引きずっていった。 そういえば赤間君の楽譜も綺麗だった。 的確な事が綺麗に書いてあった。 カリグラフィーペンのタッチ


シンセサイザー
シンセサイザーを知ったのは確か小4の頃、 つボイさんのラジオでだった。 確かつボイさん「ヤンスタ」に シンセを持ち込んで いろんな音を作って聴かせてくれた。 ノイズを使った嵐の音、波の音、 蒸気機関車の音‥etc。 ワクワクしたなぁ。 その後、友達のI垣君の 「うちにシンセあるよ!」 と言う衝撃の一言で、すっ飛んで行ってみたが、 そこにあったのは「エレクトーン」だった、残念!! その後、目の前で初めてシンセを聴いたのは 市民会館でのCAS演奏の「ジプシー」 ユーライアヒープだった。 かっこ良かったなぁ!! ハモンドの上にシンセが乗っていた。 「ジプシー」にはシンセソロがあるのだ!! その後EL&Pを知って完全に打ちのめされた。 Moogの音の良さ!太さ!表現力の奥深さ! もちろんキースエマーソンも凄いのだが‥。 この初期のMoogにはメモリー機能はなかった。 どう言う事かというと 何か音を作っても記憶できず 欲しい音はその場で作るしかなかったのだ。 キースはライブの最中、弾きながら 次に使う音を作っていた。 モジュラーMoogなので つまみと共に