

ペダルあれこれ
ピアノを弾く時、絶対必要なのがペダルである。通常は右側のペダルを多用する。これは簡単に言えば「音を伸ばす」言い換えれば「弦のミュートを外す」という機能である。もちろん踏めば弾いたその音が伸びるのだが、それとともに、弾いてない全ての弦にも音が共鳴して豊かな響きが生まれるのだ。ただ、やみくもに踏むわけではなく、コードの変わり目やメロディーが濁りそうな時には踏み変えるのである。この通称「サスティーンペダル」実は僕はかなり得意である。完全に無意識で操作出来る。 ところがROCKBANDなどキーボードを多用する場合は、そう簡単には行かない。右足はいつも通りサスティーンペダルを踏むだけなので問題はないのだが、問題は左足だ。 とりあえずオルガンのボリュームペダル、シンセ用のボリュームペダル、それからエレピのレイヤーに指定した音色のボリュームペダル‥‥と楽器が増えるごとにペダルが増えていく。また、たまにやる失敗はガムテープ止めがしっかりしていなくて、演奏中にペダルが何処かに吹っ飛んでしまう事だ。演奏中はもちろん両手で弾いているので何処かに吹っ飛んだペダルは足でや


懐メロ
懐メロは何故か毎日聴いてても飽きない。もう毎日聴いてるから懐かしくはないのだが、いいのだ。やっぱり子供の頃聴いたから余計にいい曲に聞こえるのかなぁ。曲ごとにその頃の事、例えば季節とか時間とか匂いとか、果ては好きだった初恋の人とか‥‥。 僕のお気に入りの作曲家は、まずは村井邦彦さん、それから筒美京平さん、そして宮川泰さん、吉田正さん、中村八大さん‥‥勿論、ユーミン、拓郎、象さん、大瀧さん、外国ではバートバカラック、スティービーワンダー、キャロルキング、エリッククラプトン、モーリスホワイト etc‥‥。まあメロディーもさることながら、アレンジがいいのだ。どんな楽曲もアレンジ次第でどうにでもなる。大瀧さんやスティーヴィーの曲が古く感じないのはアレンジがいいからなのだ。 ただ悲しい事にアレンジャーは儲からない。その都度の取っ払いなのだ。昔、松田聖子のスイートメモリーがヒットしたが、アレンジャーの人はたったF万しか貰っていないのである。アレンジにも著作権があればいいのにね。


絶対音感
もちろん、そんなものは無い。だいたいピアノを初めたのが小学校高学年なのだ。そうゆうものは3歳位から音楽を習った人にしかつかないものなのだ。 昔、S美に入ってすぐの頃、クラス何十人かで居酒屋に行った。そしたら5分も経たないうちに突然、一人の女の子が立ち上がって叫んだ。「ここの音楽、1ヘルツ高いんです!」そして、そそくさと帰ってしまった。高卒すぐの自分には、それがまったく理解できなかった。今ならわかる。要するにその子は440hz育ちなのだ。たぶん家のピアノの調律が440hzだったのだろう。 僕なんかは何hzだろうとまったく気にもならないのだが、最近ではN協も443hzらしい。それでは管の人達はお手上げである。上げようが無いのだ。 昔、当時の彼女と居酒屋で呑んでいた時、厨房でコップが割れたら「Gで割れた。」だの、救急車が走ったら「E♭で走って行った。」だのと言っていたが、何だか雲の上の話の様な気分だった。 自慢じゃ無いが、自慢だが、僕は相対音感がある。まあ、昔、ギターをいじっていたからコードが分かるのだ。と言うか、左手が勝手に動きコードの形になるので、


JAZZ理論
高校の頃まではC△7とかA-7とかの△7や7は、よく解らなかったから省いて弾いていた。 それでも赤い鳥の「忘れた朝」とかを聴くと、どうもそこらへんが「あのいい感じ」を醸し出しているらしいのは解っていた。 BANDで「エリザベスリードの追憶」をやった時もかなり悩んだ。A-7なのにBやDの音が鳴っているのだ。それもかなりカッコ良く響いているのだ。 二十歳を過ぎた頃、やっとその秘密が解った。いわゆる「テンション」と言うものなのだ。それからもっと勉強していろいろと解った事は、コードの上にコードを積み重ねるやり方、いわゆるアッパーストラクチャートライアドの考え方だ。 チックコリアの「クリスタルサイレンス」なんかこれが判らないと弾きこなせない。簡単に言えばA-の上にGを乗せたり、C6の上にDを乗せたりするやり方だ。 まあテンションが解ってくれば何の事はないのだが、勉強しないと使いこなせない代物だ。 因みにA-にGを乗せればA-7(9,11)使うスケールはAドリアン,C6にDを乗せればC6(9,#11)スケールはCリディアンである。 ところでパットメセニーのリ


深町純さん
お亡くなりになってかなり経つが、深町さんとは昔から縁がある。 深町さんと言えば井上陽水の「断絶」や「氷の世界」などへの参加が忘れられないが、初めてお会いしたのは僕が24歳位の頃手伝っていた「豆千代楽団」がラジオに出た時だった。特別ゲストが深町さんだったのだ。 高田馬場の某公会堂での公開生放送だったのだが、当時「豆千代楽団」は顔に色々塗りたくるバンドで楽屋で顔にペイントされていた時、深町さんに一言「君達、塗るんならもっと綺麗に塗りなよ。」と言われたのが出逢いだった。とにかく「豆千代楽団」は顔にデタラメに塗られるバンドで自分もかなり嫌であったのだ。深町さんに詳しく話を聞いたら同じ事務所に聖飢魔IIがいると言う事だった。 その後、僕が関係していたライブハウスに深町さんがソロで出る事になった。当日驚いたのは、深町さん、マイCP80を持参した事だ。そのライブハウスにもCPは有るにも関わらずだ。凄い!と関心したものだ。その時もリハの時いろいろお話をさせてもらった。 その後、高山で和田アキラさんとのデュオがあった時も、縁あっていろいろ裏方をやらしてもらった。リ


JAZZ喫茶
高2の頃、スティーリー・ダンのガウチョを買いに岡兵楽器に行った。レコードーの棚を漁ってガウチョを見つけた時、同時にレコードを掴んだ人がいた。今村のトシちゃんである。もちろんその時は全然知らない人だった。トシちゃん曰く「今シュガーヒルでかけるんなら譲るよ。」との事。それで当時昼間もやっていたシュガーヒルに二人で行ってマスターにかけてもらったのでした。いい音だったなぁ。そのあと自分ちのチープなステレオで聴いた時の落差は強烈だった。 トシちゃん話はいっぱいあるのだが、またにしておいてJAZZ喫茶の話。当時はイルミネと言うJAZZ喫茶もあって高校生なのに結構通っていた。マイルスがよくかかっていた。カレーが美味しくてよく食べたが、あとで聞いたらボンカレーにタバスコをかけた物だった。上京してからはいろいろ巡り歩いたのだが、寮が東上線だったので、もっぱら池袋のジャンゴに通っていた。パラゴンがドォーンと置いてある店で大音量でいろんなのがかかっていた。僕はその頃マッコイ一辺倒だったのでリクエストは Fly with the Wind ばっかりしていた。すると客の大