

西田君(2)
高校に入ってバンドに誘われた。ROCKのバンドだ。それで最初にやったのがツェッペリンの「天国への階段」だった。もちろん何も出来ないので、ドラムの広田君とイントロの部分をスペリオで吹いた。これが僕のバンドデビューだった。 その頃、高山ではCASと言うバンドが活躍していた。(今もあるが。)メチャメチャ憧れた。ユーライアヒープバンドだったのだが、キーボードの松尾さんがハモンドとシンセを弾いていたのだ。もちろんレスリーも回してた。ジュライモーニングやらジプシーやらに痺れたものだ。 その頃、高山には市民会館と言う体育館みたいな建物があり、低料金で借りれたらしくよくコンサートが開かれた。毎回Liveに通うたび入り口に苦虫を噛み潰した様な顔の西田君が腕組みをして立っていた。それもピンクのベルボトムでだ。何だか楽しいんだか怒ってるんだか分からないが、毎回確かに西田君はいた。 その後、タローや宮川君が「JAZZでもやるか。」みたいな事を言った時、かなり西田君は怒ったらしい。(僕は東京にいた。)きっとJAZZの厳しさを知っていたのだろう。 東京から帰って来て文化会館


西田君のレコード
昔、中学2年の時、転校生がやって来た。歳は一つ上だった。ヒョロっとして青い顔をした人だった、養護学校に1年いたので、1年遅れで学区外から入って来たのだ。ところがすぐに学校に来なくなった。いわゆる登校拒否だ。後になって「俺は高山初の登校拒否だ!」と威張っていたが。それで学校が終わってみんなで西田君ちに遊びに行った。そしたら驚いた。まず主食がみだらしだんごだった。それからスイングジャーナルがいっぱい積んであった。そしてエレキギターがあった。アンプもあった。初めて見た。何だか大人っぽかった。それからしょっちゅう遊びに通った。つづく 西田君は41歳で突然逝ってしまった。雪の降る寒い日だった。その後、お母さんが「3年使わん物は廃品回収やな。」と言わはってレコードが処分されそうになったので、慌ててなけなしのお金を握って駆けつけたのだった。 と言うことで西田君の約5000枚のJAZZレコードが僕のところに来た。西田君の夢だった「シュガーヒルみたいな店」には程遠いが西田君の意思を継いでレコードをかけています。