

一力の夜
立ち食い蕎麦が好きだ。 安くて早いからいい。 なので味は二の次になる。 が、うまいに越したことはない。 山手線の恵比寿から 日比谷線に乗り換えるとこにある 立ち蕎麦のたぬき蕎麦がうまかった。 横浜関内のクラブOの前にあった 立ち蕎麦のざる蕎麦もうまかった。 んで登場するのが「一力」。 関内駅の近くにあった。 居酒屋も併設してる店。 メチャメチャうまくはないのだが、 何故か毎日食べてた。 ちょっと甘めの出し汁で 油っこい天ぷらを乗せるのが 好きだった。 そこのオバはん。 普段は日本語だけど 怒ると韓国語で怒鳴ってた。 だらしないオヤジ達が よく怒鳴られてたな。 んで蕎麦を食べてピアノを弾きに行って 関内から伊勢崎町の店とか回って 終わったら皆んなで一力で呑んで 始発を待ったりもした。 店内は微妙に傾いていて なんとなく自分も傾いて呑む。 壁と柱に隙間がある。 煮込みとか串カツとかを 威勢よく頼んでいると お銚子一本で朝まで粘ってる おっさん達から羨望の眼差しが 刺さってくる。 まぁ、気の毒とは思うけど こっちは仕事終わりで パァ〜!としたい気分なの


画鋲とマッチ箱
ステレオなる物が家に来たのは 小学5年の頃だった。 父ちゃんが気張って 買ってきた。 かなり嬉しかった。 が、持っているレコードは 小4の頃ジャケ買いした ダニエルビダルの「ピノキオ」の シングル盤だけだった。 でもその前に、 付いてきたお試しレコード ゛素晴らしきステレオの世界゛を 聴いてみた。 なんだか民族音楽みたいな奴も 入ってたけど、 一番ぶっ飛んだのは、 汽車が左の方から走って来て 目の前を通り 右の方に走り去った事。 なんで??? どおして??? まぁ、それがステレオなのだが‥。 そのカラクリが分かるのは 何年もしてからだった。 そんでそれからは毎日 おんなじレコードを聴きまくった。 しばらくして父ちゃんが買って来た ゛日本軍歌大全集゛も 聴きまくった。 それからは小遣いを貯めては 小坂楽器に走った。 当時、歌謡曲も好きだったが、 TVの歌番組で録音出来るので (ラジカセではなくカセット録音機。 もちろんモノラル。せこいマイクで録る奴。) テレビでは聴けない曲を集めていった。 ちょっとずつ集めて行って コンプリート出来たのが ゛ジロー


名古屋だがや
高校の時、ドラムの広田君が 名古屋のYAMAHAへ通っていた。 先生は、あの゛猪俣さん゛!! すんごく羨ましかった。 そんで僕も親に頼んで 月に2回だけ習える事になった。 本当は4回だけど‥。泣 先生はS木A子先生。 どんぐり音楽会のピアニスト。 ポピュラーピアノを習ったが、 本当はJAZZが習いたかった。 まぁ、今考えれば順番があるわな。 それで、好きでもない 「シバの女王」とか「モア」とかを ブンチャブンチャ方式で弾いていた。 JAZZ理論は、 綴じた資料を渡されただけで 説明は一切なし 分かるわけなかった。 ただ名古屋行きの楽しみはあった。 行きは名鉄で行く。 できるだけ一番前に陣取る。 犬山だかで、汽車が思いっきり 道路の真ん中を走るのが楽しかった。 レッスンは夕方なので それまではパチンコ屋へ。 当時、高山は手打ちだったが、 名古屋は自動打ちだった。 お金が無いのでケチケチ打ちをする。
機械だけパンパン打たせといて たまぁ〜に玉を入れるのだ。 これだとかなり節約になる。 それでチューリップがひらいたら 一旦止めて一服する。 全開になっ


工夫と創造
どんな音でも出す 器用な人達がいた。 まずは横浜のH君。 ギターを弾きながら 歌も歌う。 そしてギターシンセも‥。 なのでエレピやストリングスなど ギタリストが出さない音まで出してくる。 始めて演った時はめんくらった。 ピアノのパートも弾いちゃうからだ。 それまでピアノ弾きが居なかったので ピアノまでコピーして弾いていたのだ! それも゛ギター゛で!! 次に驚いたのは銀座でのトラ。 (トラとはエキストラの事。 誰かが休みたい時に代わりに行って弾く事。) 2,3回、そこにトラに行った。 現場に行ったらギターと歌、 そしてベースと歌の2人組が待っていた。 びっくりしたのは 演る曲すべてのカラオケがある事。 それもすべて自分達での打ち込みだ。 当時まだコンピュータでのDAW 環境は高額で、 というかコンピュータ自体も強烈に高かった。 なので彼らはMC-50を使っていた。 Shingも使っていた。 ただ当時のMCはメモリーが少ないので 2,3曲ごとにフロッピーを入れ替えて 読み込んでいた。 それを演奏しながらこなしていた。 MC-50はバンドエイドほどの液